開催報告

「 科学技術的解と社会的合意:放射性廃棄物の事例から 」


2023年10月4日(水)に開催された特別対談「 科学技術的解と社会的合意:放射性廃棄物の事例から 」の開催報告です。

登壇者の発表内容  

◇主催者挨拶 篠田 裕之

私たち大学のスタッフにとって、新しい知識や技術の創出とそれを世の中に発信することは一つ大きなミッションである。しかし、研究成果が実際に世の中で使われる際には、必ず負の側面伴う。

 私の研究は人間の触覚を解明し、世の中に役立てるというものだが、今までは研究倫理についてあまり考えていなかった。しかし、実用化が近づき、感覚を制御できるようになった際には、人の心を強く動かすことができるようになる。うまく使えるといいが、少し使い方を謝ったり、悪意を持って使ったりすると、ネガティブな影響をもたらすこともあるだろう。

 これは私だけでなく、多くの研究者が直面する課題である。少し前までは、研究者はひたすら新しい技術や知識を開発し、その使い方は社会が判断するというモデルで行動していた。しかし、最近は、技術が難しくなってきたので、技術を使用する個人や団体が負の側面を予測し、適切な対策を講じることは困難であり、悪意を持っている人に対し、法律だけでは対処することは現実的ではない。

 そこで、現在、私たちに求められているのは、新しい技術を社会に出す際に、負の側面を正確に予測し、その負の側面が出ないような対策をセットにしておくことである。これにより、技術の開発と導入がスムーズに進むことが期待される。倫理というのは、ポジティブで創造的な意味であり、技術をスムーズに世の中に出していくという点で重要であり、ある見方によっては非常に興味深く取り組みがいのあることである。

 本日のワークショップでは、特に放射性廃棄物という難しい問題に焦点を当てる。研究倫理の第一人者である小林先生と徳永研究科長が対談を行うということで、この対談を楽しんでいただけたらと思うし、テーマは違えども、皆さん自身の研究にも引き寄せられるものであると思うので、今後に役立ててほしい。

◇プロローグ 福永 真弓

 このワークショップは、想像倫理科学ワークショップのプロジェクトの一環で、今年度で3年目に入る。新しい年度が始まったばかりなので、まず研究倫理について簡単に説明し、その後で2人の対談に進む。ELSIとRRIと呼ばれる、科学技術の倫理的、法的、社会的課題、また、責任ある研究とイノベーションが、今日の研究において不可欠である。特に、新領域では、この二つの取り組みが非常に大きな意味を持っている。なぜなら、領域横断的・学融合的な研究、また、科学と技術の間、社会変革に資するような研究、現実問題への具体的な解や実装を目指す研究が多いからである。

 研究科としては、ELSIやRRIを研究倫理という枠組みの中に位置付けながら議論していきたいと、2021年から考えていた。研究倫理の柱である、誠実で責任ある研究は、公正な研究活動や研究不正の防止とは少し異なり、ヒヤリハット集や制度的手続きではカバーしきれない側面がある。倫理とは一体何だろうという非常に根本的な問題があり、また、法律の観点からは問題ないが、社会的にはとても問題になる、様々な側面を持った問題を倫理とひとくくりにしていて、実はよくわからないといった現状がある。篠田先生のお話でも指摘があったように、問いそのものが科学の中で社会と共同で作られなければならないというポスト・ノーマルサイエンスの時代になっている。その中で、応答する、協働デザインをするということは非常に重要になってきている。このような時代において、新領域でRRIを実現するために、構成員にとって、対話が最も重要である。新領域におけるプラスアルファの試みとして、対話の場所を恒常的に設け、学際的に私たちがどのような創造性を持ちうるのか、責任を感じられるのか、ということも含め広い形で議論することは重要である。複数の対話の場を作る、むしろ対話の場として新領域をどう作るかというのがこれからの課題である。ワークショップ自体、社会的な問題の背後にあるもの、あるいは、科学の後ろ側に何があるかを少し深掘りしてみるというアクションを狙っている。

 この3年間、2021年から2022年、そして今年も、様々な形で、グラレコさんに登場してもらう。

 大事にしてほしいのは、お互い全然違う専門分野なので、成熟したアマチュアにどうなれるかということ。聞きながら自身の中で考えを深めてほしい。学生主催の対話の場も進行中であり、抱えたものを自分で出すという機会もあるので、今日も次の活動に繋げるような形で議論を進めていければと思う。

 本日は、「科学技術的解と社会的合意:放射性廃棄物の事例から」と題し、2人の先生をお招きした。放射性廃棄物の問題は非常に複雑であり、また、社会とその社会に生きるということ自体をどう考えるかという根本的な部分に関わる課題でもある。

◇プレゼンテーション①: 徳永 朋祥 【原子力発電により発生する高レベル放射性廃棄物地層処分について考えること】

本日は、研究科長としてではなく、一市民として、一研究者として、一教員としての立場、お話しさせていただく。原子力発電所から出る廃棄物というものをどう考えるかということである。日本では、福島第一原子力発電所事故が発生し、その結果、我々は処理しなければならない大量かつ異なる濃度の放射性廃棄物を抱えている。これについて考えることは極めて難しい。

今日、私が話す内容は、通常運転中のプラントからの廃棄物処理についてである。これに関して、様々なことを考えなければならないが、将来、我々や皆さんの学生たちは、より難しい課題に取り組むことになるだろう。放射性廃棄物を、社会全体として、人としてどう考えるか、技術的にどう対処していくべきかという問題がある。

「想像してみる」という視点が大切だと福永先生がおっしゃったが、私の話を聞いた上で、私たちが抱える長期的な課題についても考えてほしい。

【日本が抱える放射性廃棄物】
現在、原子力発電に関しては、さまざまな立場や考え方、議論が存在している。日本の一次エネルギー供給について、かなり化石燃料に依存している。しかし、1975-2012年頃は、原子力が一定程度の一次エネルギー供給しており、原子力発電所からの廃棄物は既に蓄積している。これについては、私たちや将来の世代が考え、方向性を示し、実践していかなければならない。

放射性廃棄物は扱いが難しい。現在、放射性廃棄物をガラス固化体にし、地下に処分するということが考えられている。1年間3万人分の電力の発電で500kgのガラス固化体ができる。この中には濃度が非常に高い放射性物質が40kg含まれている。1つのガラス固化体には、福島第1原子力発電所事故で環境に放出された放射性セシウムに匹敵する量が含まれている。私たちの社会は、ガラス固化体24000本という高レベルの放射性廃棄物を抱えている。

【廃棄物処理の一般的な考え方,BAT】

廃棄物処理の一般的な考え方では、ガラス固化体による処理は合理性があると考える。廃棄物処分の方法として、無害化、希釈分散して環境に放出しその浄化能力に委ねる、廃棄物を濃縮して量を減らし生活環境から隔離する、の3つがあり、それらを組み合わせて行うこともある。

さらに、もうひとつ重要なことは、利用可能な最良の技術(BAT)を使用することである。科学技術は常に進歩しており、将来より良い技術が出てくることへの期待はあるが、それに頼りきることは適切ではない。よって、現社会で利用可能な最良の技術を使用して、廃棄物処分を行うべきである。しかし、一方、日本国内でこの高レベルな放射性廃棄物をすべて処理するには約80年かかると言われている。その間に新しい技術が開発されないことは想定しにくく、それは時間の問題だといえる。時間が経過するにつれて、より良い技術が生まれ、それがBATであるとすると、それを用いた廃棄物処分への期待があり、また、技術屋にはそれを行う責任がある。我々は技術が一度開発されると、その技術に依存しがちである。BATを、長期的なエンジニアリングプラクティスに適用することは、大きな挑戦の一つである。

【地層処分について考える上で歴史的に重要な出来事】

そもそも、1960-1970年から様々な人が考えたにもかかわらず、なぜ地層処分が進展しなかったか、という問題について触れる。1948年、原子力の平和利用が始まった際、ロバート・オッペンハイマーは地層処分や放射性廃棄物の問題は”unimportant”であると述べた。これは、当時の技術者たちが、最先端の技術に取り組む中で、廃棄物処理の重要性を過小評価したのかもしれない。

これは、先ほど述べたBATに関連するかもしれないが、現在は地層処分が国際的な合意となっているが、1960年代の前半では、日本では廃棄物をタンクに貯蔵し、最終的に深海に投棄するという海中投棄が議論されていた。当時、地層処分は技術的に困難と考えられていた。難しいと見なされていた地層処分がなぜ現在は主要な技術として採用されているのかという点については、我々の経験と技術の展開がある。1972年にアメリカのワシントン州にあるハンフォードサイトで、プルトニウムの生産により発生した高レベルの放射性廃棄物をタンクに貯蔵していたが、ある日、タンクの水位が下がっていることが発覚した。タンクの水位が下がるということは、何かが漏れ出している可能性があった。長期的に高レベルの廃棄物を液体として管理することの困難さが浮き彫りになったといえる。さらに、高レベルの廃棄物をガラス固化体として処理する技術が適切であり、実行可能であるという技術的な展開があった。日本国内ではこれにやや遅れがあったが、このようなアプローチが考えられるようになったことで、技術の進歩とリスクの見方が変わった。私たちは現時点ではガラス固化体と地層処分を採用しているが、これが50年後や60年後においても主要なアプローチであり続けるかはわからない。この点を頭に置いておく必要がある。

このような背景があったため、1976年には原子力委員会が地層処分の方向性を採用した。技術がより適切で安定な処分ができるという段階に達したことで、全体的な考え方を変えていく判断がなされた。

【高レベル放射性廃棄物の放射能の減衰】

ガラス固化体の特性について整理するには、次の図が非常にわかりやすいかと思う。横軸は時間を対数で表し、縦軸は1トンあたりの放射能量を、同様に対数で示している。このグラフからは、最初は非常に高い放射能量(100億ギガベクレルなど)から始まり、100万年が経過すると、おおよそ1000ギガベクレルにまで減少することが分かる。このプロセスには非常に長い時間がかかることが示されており、将来的にこのような廃棄物をどのように処分するかについては、さまざまな判断が必要だろう。


もう一つ、このデータを解釈する際に注意が必要な点は、縦軸が燃料1トンに相当する放射能を表していることである。これは燃料1トンそのものである。ガラス固化体への処理により、1トンのもともとの燃料から500kgのガラス固化体が生成されるため、単位質量あたりのグラフではない。この点に留意しないと、誤った解釈が生じる。
赤い線はウラン鉱石の放射能レベルを示しており、ウラン鉱石は自然界に存在するものであるので、そのレベルと同じくらいの放射能にまで減少すれば、まあいいだろうとみなす。ウラン鉱石から燃料を取り出すには、ウラン鉱石が750トン必要である。このため、赤い線と青い線を比較することは、750トンの材料と500kgの材料の放射能量を検討する議論にもなる。これは、データの提供方法が不適切だといいたいわけではなく、さまざまな情報の提供の仕方がどうなっているかということを理解することが大事である。

【深部地下環境への期待】

地下への廃棄物処分に関し、期待されている地下の特性は、地下は地表に比べて環境の変動を受けにくい、酸素があまりないため物質が変質しにくい、物質が動きにくい、というものである。このような条件が達成されるサイトを選ぶことが重要である。選定されたサイトにおいて、その特性に応じたデザインとエンジニアリングを行い、必要な機能が発揮されることが期待される。

【シナリオに基づく将来評価とその説明】
将来については予測が難しい。我々は明日の天気予報をかなり正確に予測できるが、1万年後や100万年後など、遠い未来の予測は正確にはできない。ただし、地下が比較的安定した環境であることを考慮し、適切な場所を選定し、そこで適切な技術を適用した際には、ある程度の幅におさまる将来を推定することが可能である。運命を言い当てることはできないが、ある程度の幅を想定し、その中で起こりうる将来の事象について、私たちの社会はこれを受け入れて処分のプロセスを進められるかどうかという議論をすることになる。

安全評価をする際に、将来の可能性についてシナリオを作成し、その幅を示しているということである。将来のことを正確に知ることは難しく、ロバストに完全に物事を予測できるわけではない。安全性を評価するために「もしも漏れた場合、どのような影響が起こるか。それでも安全です。」というシナリオを示すが、聞き手からすると「そんなことも起こるの!?」というマインドになってしまう。つまり、技術者が真面目にやればやるほど安全性の説明が難しくなってしまう。

これに関し、日本ではこのような説明をしている。一つの例として、横軸が処分後の時間の対数で、縦軸は処分後の追加被曝量を示したグラフをあげる。様々なシナリオにおける追加被曝量が示されているが、どれにおいても、通常の生活における1年間の被曝量からみると十分に小さい。さらに、高い追加被曝量のシナリオに対しては、適切なエンジニアリング技術により、そのリスクを最小限に抑えるための準備を行うとしている。しかし、この説明はわかりにくい。

スウェーデンの例を挙げる。スウェーデンは廃棄物処分に関してかなり進んでいる。先ほどと同様の情報を提供しているが、時間の経過に伴う追加の被曝量を示し、成功した場合を書き、技術に期待した効果が発揮されなかった場合にどのようなリスクがあるかについて詳細に記述している。これは、バリアが喪失した際のリスクを示すと同時に、バリア機能の説明ともなっており、情報量が多い。
【地層処分を進める上で重要なこと】
地層処分を進める上で重要だと考えている点について整理する。まず、国全体としてこの問題に対する理解を高めることは重要である。日本では既に約4,000本相当のガラス固化体になる原子力発電をしたという実績がある。
そして、もう一つ非常に重要な点は、処分場所を選定すると、最終的には日本国内で1つまたは複数の場所に限定されることである。これらの場所で処分が行われる際、その地域がどのような場になるか、また処分が行われない地域はこの問題に対してどのような立ち位置をとるか、といった点は、国全体や人として考えるべきだ。

2番目に、地域の特性を理解することである。処分が検討されている場所の地下情報を、どの程度正確に収集できるか、という技術的な課題がある。これには、自然科学的または工学的なアプローチを用いて技術開発を進める必要がある。

3番目に、BATは非常に柔軟なシステムであることが期待される一方で、放射性廃棄物の処分においては、そのシステム自体は頑健であることが求められる。柔軟性と頑健性をどのように達成するかは、技術的な挑戦の一環である。技術そのものが進む、調査が進むことによって理解が進む中でどの方法がいいのか判断することは、技術者に柔軟性が求められている。

そして、最後に、地層処分の事業には約80年かかると言われている。私はこれから80年間生き続けられないだろうし、私の子供たちも80年後に生きてはいないだろう。したがって、社会的に重要なプロジェクトを世代を超えて進めるための枠組みが必要であり、技術の進歩とその成果を適切に活用することが重要である。そのために、大切なことの一つは、「立ち止まる」という仕組みを確立し、その仕組みを適切に進めていることへの社会の期待に対する、技術者の正しい振る舞いである。立ち止まる仕組みは、しばしば「可逆性」という言葉で議論される。この中央に位置する部分で再評価を行うことがしばしばあるが、一度開始すると中断できないのではないか、と思うことが、事業を始めることに躊躇する理由である。これまでの日本の多くの事業がそのようだったと認識している。再評価は、それでもよければそのまま進めるということを確認する機会でもある。

必要に応じて適切な修正を行い、後戻りするべき時は後戻りすることは、特に長期間の事業や社会的な合意が必要な事業において、重要である。事前の準備がしっかりと行われ、社会的合意が得られることが、廃棄物処分事業などの安定した進行につながるであろう。


【おわりに】
最後に、小林先生がご講演いただく予定だが、私が初めて学んだ際、小林先生の教科書である「トランスサイエンスの時代」という本を読んだ。このような議論は実は1970年代から存在していた。


これは、ワインバーグが1972年に書いた”Science and Trans-science”という論文だが、そのときに今日話してるような議論というのがあった。”Many of the issues which arise in the corse of the interaction between science or technology and society hang on the answers to questions which can be asked of science and yet which cannot be answered by science.”こういうようなことは今の時代たくさんある.

パブリックポリシーなどが入ってくるような話になると、”the role  of the scientist in contributing to the promulgation of such policy must be different from his role when the issues can be unambiguously answered by science.”ですから、科学を科学としてやっている人たちが、科学に対して正しい立ち位置を取るってことをトレーニングとしてやってきている。科学と社会とがしっかりと関わる際、私達のやらないといけないこと、私達がどういう立場を取るかということは、非常に重要な考えるべきことがある。このようなあたりの議論を今日小林先生とさせていただければと思う。ありがとうございました。

◇プレゼンテーション②: 小林 傳司【科学×技術×社会 放射性廃棄物をめぐるエトセトラ】

 最初に福永さんが、科学そのものと対話してきたとさえ言えるという風に私のことを紹介してくださった。あまりそういうことは考えたことがなかったが言われてみると、言い得て妙だなと思った。今日は、科学とか技術とか社会についてどういう見方が可能なのかということを、いくつかお話をしようと思っている。

【RRIとELSI】

このワークショップにおいて、ELSIとRRIという言葉を最初にキーワードのようにおっしゃっていたが、あまりそれについて今日触れることはできない。しかし、最初に少しだけ簡単に申し上げておきたいと思う。

ELSIというのは、1990年前後、ヒトゲノム計画のDNAを読むというときにワトソンが、これが人類社会にどんな意味を持っているのかということを並行して議論すべきだとし、予算制度として、大きな研究費の予算制度を、人文社会科学系の方に埋め込んでいくというやり方をした。それが生命科学以外の分野にも広がって、ナノテクノロジーなど様々な技術で、これが社会に持ち込まれたときに、どのような倫理的、社会的、法的な課題が生まれるかということを研究する、というプログラムとされてきた。つまりこれは、先にテクノロジーがあって、それを社会に持ち込むという意味で、テクノロジーアセスメントの考え方の系譜のものである。これはこれですごく大事だが、RRIとは少し発想が異なる。

非常に単純にわかりやすく説明すると自動運転技術の例がある。

自動運転技術が開発されて、それが一般の公道で走る時にどのような課題が生まれてくるか、を考えるのがELSIで、技術が先にある。

日本は人口減少をしているので、過疎地が増える。その際、モビリティはどうすれば良いのか、その課題に対してどのような技術が使えるか、自動運転が使えるのではないか、と考えていくのがRRIである。

RRIとELSIは両方必要である。事柄に応じて適切なものを選べるかという柔軟さが大事である。


【ポスト・ノーマル・サイエンス】

そんなことを前置きにして、ここでポスト・ノーマル・サイエンスについて述べる。先ほど、徳永先生はワインバーグが1972年とおっしゃっていたが、このRavetzという科学論者も2006年より前からこのようなことを言っていたが、本にしてまとめたのは2006年のことである。


横軸は不確実さです。よくわからない。そして縦軸は、よくわからないけれども、何か社会にとって大変重要な、利害の大きな成果や結果をもたらすようなものというふうに考える。その場合に、かなり科学技術がくっきりとした知識を持っている場合には、それの応用で、大体対応できるという、応用科学のモデルというのは非常に安定している。

しかし、世の中には、そうとは言い切れない場面がいろいろある。例えば、Ravetzが挙げていた例として、外科手術をするとき、事前に体の中身を全部チェックし、それで術式を決めていく。しかし実際に回復してみると、想定外の状態になっていることがありうる。その時は、その外科医のその時点での判断に任せるしかない。このような場合は専門家への委任という形で我々社会を回しているのではないかと。それに比べてもっと不確実性が高く、しかし、社会にとっての重要度がもっと高い話題がある。そこは専門家に委任するというやり方ではもはや回せないのではないかと彼は言った。そこのポイントは、安全、健康、環境、倫理学が変わるような話題である。そのような話題に対して、専門家への委任はふさわしくないという言い方をした。この本は、全体に、最近のAI、ナノテクノロジー、量子コンピューティングといった、バリバリのマッチョな科学技術が進んできているということを念頭に置き、そのような科学技術が実は、Safety, Health,Environment, Ethicsと絡んでいるだろう、それを考えなくていいのかというメッセージだった。なのでわざわざ、SHEEという言葉で表現し、今の現状の科学技術を放っておくとあまりにもマッチョなので、そのカウンターとしてこのようなものをちゃんと入れるべきだと、そのようなメッセージがあったのだと思う。

ということで、科学技術の専門家に任せるには重要すぎるというのが一つのメッセージである。そのような場面がある、ということで、あれかこれかではない。どんな瑣末なことも全て市民が参加するということはあり得ないわけだから、これもあれかこれかではない。あれもこれも、である。


【リスクの話】

リスクの話を少し例にとる。リスクというと、工学の先生などが講演会で説明するときに、「皆さん、リスクっていうのは、正規確率とハザードの大きさの積なんです、掛け算です。そして世の中にゼロリスクはありません。」といい、これが定番の説明になっている。0リスクの話はどこかで時間があればお話したいと思うが、本当にリスクをこれだけで考えていいのかというのが、問題点である。このシステミックリスクという考え方は、また2004年ですから、先ほどのRavetzと同じ頃である。つまりリスクというのは、色々あるということを言っている。だから、損害の程度というものがあるが、これは何で定義するかによって色々ある。例えば、死者の数など、経済的な損失はいろいろ計算しようがあると思う。それから正規確率、これらの掛け算だというが、実は、この二つ以外に考えなければならないことが色々ある。やはり、不確実性があると、正規確率そのものがもう少し不確実性を伴い、それから、損害が広くあまねく広がるのか、それとも局所的にとどまるタイプの損害なのか、それから、その被害がどのぐらい持続しているのか、割と短時間で消えていくものなのか、長時間にわたって起こるものなのか、それから、そもそも元に戻せるのか、1回起こるともう元に戻せないような被害の場合、これらを同じように、単純に、正規確率と損害の程度で比較することに意味があるのかという問いかけである。

それから、遅延効果もおわかりだと思うが、原因となる事象と、それによる損害が出てくる時期との間にずれがある。そうすると、人々はどうしても認知が遅れる。温暖化の問題はこのタイプである。

このように、色々なことを考えなくてはならないということ。平等性の審判はわかると思います。都市圏で電気利用していて、そのリスクが福島に行ってしまったというのは、散々言われたようなお話だと思う。そういうことを考えると、縦軸が正規確率で、横が損害で、この2次元となるが、その中に色々なタイプがあり、それをギリシャ神話になぞらえて説明してみせるのがヨーロッパ人で、日本の神話では、なかなかこれは作れないかなと少し思ったことがある。


ダモクレスは、王様が椅子に座り、その上に細い系で剣が吊るされている。そうすると、いつ突然何が起こるかがわからない。めったに起こらないが、起こったら致命的というタイプのリスク。キュークロープスは、目が一つの怪物のギリシャ神話。これはどういう意味で目が一つかというと、起こったときにどの程度の被害が出るかはかなりわかっているが、その正規確率がどのぐらいかはわからないという意味で縦にギュッと伸びている。そのような表現である。このようなタイプのものを説明して、そしてそれぞれに応じた、2006年だと、電磁波問題、それから内分泌攪乱物質は、まだヨーロッパでもシリアスに感じられていたので、時代的な影響を見ることができると思う。これは、リスクマネジメントの人に対する、一種のマップのようなつもりで作ったらしく、これが完璧にカテゴリーに当てはまるかどうかはまた別の問題だと思う。しかし、それに応じてマネジメントのやり方が色々あるんですよということで、リスクに応じてマネジメントの仕方を変えなくてはいけないというメッセージがあった。だから、あれかこれかではなく、あれもこれもの世界、またこれの典型なんです。

【科学と技術】
時間がなくなってきたので、科学と技術のお話の方に進みたいと思う。往々にして我々の社会では、科学に基づいて決めるとあっさり言う。そのときの、「科学」というものの定義が非常に問題になる。先ほどのワインバーグ、ラインベッツもそうだが、彼らが言う科学は、日本でいうと理学部的科学が多い。イメージとして、サイエンスという言葉は、やっぱり彼らはそう使う。医学部の学生の前で医学は科学じゃないと言ったら、むきになって反論された。なぜですかと言われたので、だって科学より古いじゃん、そして医学は人間生物学じゃないでしょ、というふうに言ったら少しずつ理解をしてくれた。ですから、理学部的な科学というのは、物理学は科学だけど工学はちょっと違うんじゃないの、という感覚はあるだろうし、人文学は人文科学とは言わないという、人文学者のプライドがあると思う。だから、経済学は科学ではないと言いたくなるときがあるが、経済学の人は科学だと言っている。学術会議は科学という言葉で全部を含むと一応決めており、日本の法令用語はそうなっているが、「科学」をどう考えるかという時に、理学部的感覚では、世界の現象や振る舞いを物質の言葉で記述することを目的とする学問というふうにとりあえず考える。だから、その中に、感情、好きとか嫌い、病気、そういうことはない。工学は、数学と自然科学を基礎とし、特に人文社会科学の知見を用いて、公共の安全健康福祉のために、有用な事物や快適な環境を構築することを目的とする学問だというふうに、日本の工学部長会議で書かれた文書にはあります。これを見て、これだったらどこが理系だというふうに言いたくなる、つまり理系という言葉はものすごく解像度が粗い。理学と工学は全然違うというところがある。研究というのはそういう意味である。ものすごく多様でいろんな分類の仕方がある。

【研究の分類】

横軸が、利用を意識しているかどうか、縦軸は根本的な世界の理解を考えているか。左上には、役に立つことは考えず、世界の真実だけ明らかにしたい、ベーシックリサーチという意味で、ニルスボーアが入っている。それに対して役に立つことも考えているが、世界の根本的なことも解明したいというのが、Use-inspired basic research、Pasteurという風に書いてある。日本の工学の先生は、大体俺たちがやったのはこれだという。理学の先生はボーア型かもしれないが、俺たちがやっているのはパスツール型だという言い方をするので、割と受けがいい。エジソンになると、今身も蓋もなく、役に立つことしか考えていない。この左下が空白地帯だったが、これは私がオリジナルで埋めている。役に立つかどうか、世界の真実を明らかにするかというのを、直接の目標にはしていない。しかし、例えば、環境問題でCO2の濃度がこれだけ経年的に変化してきたというデータは誰が取ったんだと、こういうことをとってくれる人がいなかったら分からなかっただろう、それからデータサイエンスは最近、こういったものは全部コードタイプのものが多く、ここはあまり軽視してはいけないというのが現代的な問題だと思う。このように、科学のあり方に関しての分類というのはものすごく色々である。

そして、最初の話にちょっと戻るが、今回のパンデミックのときに、公衆衛生学の方々がずいぶん活躍をされた。これは一体どういう学問なのかということを調べると、やはり、実践的な学問である。健康増進し、疾病の負担を軽減し、健康水準の格差を是正し、地域、国、地球レベルの健康への脅威に対処するための組織的な活動を実践・評価する学問である。つまり、どう考えても理学部の生物学的発想とは違う。疫学はもう少し具体的に書くと、提案している。タバコを吸わない方がいい。理学だったらタバコを吸うと何人死にます、以上である。しかし、そういう意味で、処方箋を提示する科学という側面は、ベーシックサイエンスにはない発想になる。そういう意味で、科学という言葉が、社会に対してどんな役割を果たすかという時に、最近は科学的助言という言い方をする。これは、世界のナショナルアカデミーがやる作業の、非常に重要な問題として言われる。

【科学助言者と政府の役割領域事例】

先ほども徳永先生とお話したのだが、日本の審議会というのは一体何なんだろうかというのがよくわからない。

科学的助言というのは、科学者がある種独立して議論をし、それを政府に対して提案する、行政に対し意思決定者に対して提案するという、そういう構造を持っている。日本の場合だと、これだけの組織が、大体科学的助言の役割分担をしている。この左側の方が助言をする部分で、右側がそれを実施していくという別れ方になっていて、真ん中がその政策のオプション作成をしていくということになる。

審議会というのはこの図でどうなるんだろうというのが非常に私は悩ましいところだと思う。このような問題を考えるときに、リスクという考え方だけで、この議論は多分できないだろう。リスク管理という観点で政策を議論されているが、おそらく我々が求めているものは単純なリスクだけの問題ではないだろう。先ほどの九つぐらいの要素がある考えなくてはならないことという所で申したが、やはり、安全であれば、人が死ななければいいという世界ではない。元に戻せるような災害に対する対応と、もう一旦起こってしまったら、人は死ななくても元に戻せないような被害というのを、単純にリスク計算で議論するというのは無理がある。つまり、どんな世界を求めるかというレベルの議論はリスクだけでは語れないだろうというふうに思う。そのような意味で、科学的助言の役割は結構難しく、世界で悩んでいる。結局、世界的に大体合意が得られているのはこの辺りである。科学的助言、このときの科学というのは、先ほどの理学部的サイエンスに近いものだと思ってほしい。これは、社会的・政治的・経済的・倫理的考慮もある中での一つの要素だということだ。科学的助言における知識は学術的知識を超えるものである。なぜなら、科学的助言の知識は、科学的な基準を満たした上に、さらに政治的に効果のあるものでなければならないからだ。行政官は科学的な科学者の発言に対して、そのままそれを政策にできない場合が非常にたくさんある。非常に有力な政治家がやたらとギャンギャン言っている状況、あるいは財政状況、それから過去の経緯、そういったものを全部まとめて考えた上で、科学的助言を考慮して意思決定をせざるを得ない。基本的に政策を作るというのはそういうことだ。

だから、学術会議も同じようなことを書いており、科学の知見は政策形成の過程において十分尊重されるべきものであるが、政策決定の唯一の判断根拠ではないことを認識するべきであり、異なる政策決定がなされた場合には必要に応じて政策立案者決定者に社会への説明を要請する、という構造になるだろう。これはアメリカの国務省の大科学顧問の方で、やはりこの人は理学系のサイエンティストであり、彼が科学的アドバイスとはどういうものかということを語った言葉である、翻訳して要約をすると、価値判断をする際に科学者に何か特別な権限や専門性があるわけではない。この言い方をした瞬間に、これは理学部的サイエンスの理解ですある。小見先生のような高収益学者は、自分には専門性があると言うと思う。だけれども、物理学者はこういうふうに思う。それでも、意思決定者である市民が問いを提起した場合に、それが価値判断を必要とするような問いであっても、科学者が応答することが大事だと私は思う。責任ある、信頼できる、レスポンシブなやり方で助言を提供するというところこそが、腕の見せどころなんだという言い方をしている。最初に福永さんが成熟したアマチュアという言い方をされたが、多分、理学部的サイエンティストでもこういうところにある程度責任を持とうということは、成熟したアマチュアの良き部分を表現しようとしているのかもしれない。

結局科学の立場にとどまるというのは一番楽なのだ。私の専門ではないから、もっと研究してください、以上、というふうに言って済むというので、世の中回ればいいが、そうはなかなか簡単にはいかない。つまりそれは結局先送りであり、それが社会のセッティングの中で一定の価値判断をしたことになってしまう。

これは鬼頭先生がおっしゃった、専門家の責任で語るとこれがなかなか大変である。原子力の裁判のときに最高裁が出した判決の文書はこういう形です。これは福島の前です。この後、原子力行政に関してはもう行政庁の専門技術に任せる、要するに専門家への委任だと言っていた。それから、イギリスでBSE事件が起こったときに、このサウスブーン院長は昆虫学者だが、逆に規制に関していろいろ発言をしたら、欧州の畜産業界に多大な打撃を与えることになると考えてやめたと、そこまで言っている。これは、サイエンティストとしてやるべきだったかどうかは非常に難しい。

そして、日本では、渡辺さんは、原子力安全委員会のところで、0リスクはないのだからどっかで割り切るんだと、その割り切ったやり方が正しくなかったということを十分反省してございますというふうに、答えがない。

この問題について、市民・社会の人々の参加が、どのような可能性があるのかというのは、後の討論のところで少しお話できればと思う。ただいずれにせよ、こういう問題のところで、非常に大事だと思っているのは、このキャッチウィルコックスの書いたイラストである。あまりに我々の社会は効率を求め、タイパを求めそして白黒つけたがる。しかし、世の中、白黒のつかないところがいっぱいあって、そこに対しては耐えなくてはいけない。ネガティブケイパビリティのようなものである。それがこの漫画のところでは、真ん中のグレーのところで、書かれている。ギャーギャーと論破しあうのではなく、ニュアンスディベートをするという、この部分こそがないと、専門家に任せても届かず、、黙ってたら余計ややこしくなってという問題を扱うことはできないんじゃないかというふうに思う。

対談

福永)それでは、今お話をいただいたお2人の先生方と対談をしていきたい。既に徳永先生のプレゼンテーションに対して、小林先生がいくつか必要だなと思われる、そのためのその対談のための準備のバックグラウンドの提示を、実は今プレゼンテーション中で行っていただいた。皆さんの頭の中に階段のように積み重なっているところがたくさんあると思う。一つ一つここをときほぐしていきたいと思う。


福永)まず何よりも、先ほどのグレーのところ。黒か白かではなくてグレーの部分が、実は専門家同士、また、専門家と市民など、すれ違いながらも、異なるバックグラウンドを持ちつつ、同じ土台で話すということを作っていかなければいけない。実は、お2人のお話の中に、科学と技術の間という、厄介な問題があった。ここを先に小林先生が、科学に関しての議論をしてくださって、それに対して徳永先生から、いや、僕の受けてきたエンジニアリングの教育だと、こういったところがエンジニアリングの当たり前になってきたけれども、今はもう当たり前じゃないのかもなと思ってらっしゃるところが常々ある、ということを私はお伺いしていた。そのエンジニアリング、つまり科学とは違ってエンジニアリングとはこういうものだという風に教育を受けてきた中で、当たり前となってきたことで、さらに今違和感を感じているところなどを、まずお広げいただけないか?


徳永)最初に申し上げますが、私は、修士まで理学部である。その後、工学系に移った。それでも、工学にいる時間が非常に長いので、エンジニアリングがどういうことを進めてきたかという点を一言で言うと、これは全てのエンジニアリングの分野ではないが、僕はエンジニアリングというのは、やってきて非常に重要なことの一つは、社会をすごく便利にしたことだと思う。社会を便利にすることと、社会が豊かになることと、先ほど小林先生がおっしゃっていたウェルビーイングというのは何ですかというのは、少し軸が違うんじゃないかなと、今日小橋先生の話を聞きながらも思い、私もずっと気にしてたことである。工学は何か問題が設定されると、それを非常に美しい形で解き、解を出し、それを社会に展開していく、ということにすごく成功してきた分野だというふうに考える。それは少し言葉を選ばずに言うと、便利にするというような問題設定は、問題設定に関してもやりやすいところがあるし、それは結果も見やすいということで、このような部分はすごく進んだのかなという気がする。一方、それは社会を豊かにしたのかということに対する考え方の整理、もしくは社会の中での受け止め方ということに関する我々の感性は十分に高かったのだろうかということは、このような分野をやってる人間としては、気にしている重要なことの一つだというふうに思う。


福永)ここで先ほど小林先生が公衆衛生学などの事例を引きながら、ある意味工学が価値というものと一緒に走ってきたのではないか、とおっしゃっていたが、一方で、エンジニアがその価値にコミットメントをするということは、放射性廃棄物処分において、とても難しいことかと思う。そのあたりを発言するなど、この問題に関する難しさの一番肝なのがこの辺りではないかと思われることがある。


徳永)ただ一方で、先ほど申し上げたのは、SUPERクラシックな工学かもしれず、今は工学の人たちは社会の中に何を設置し、位置づけますかということまで踏み込んで考えるようになってきているような気がする。そういう意味でやはり工学の分野は、工学というのはどんどん拡張主義なところもあるが、一方で、工学というのがやらないといけないという分野の意識も広がっているような気がする。ですから、さっき僕が一番最初に申し上げたのは、ややクラシックな工学にする物の見方で、今はその部分をオーバーカムしようとしている活動はいくつもあると思う。ただ、それはそれほど簡単なことではなく、それはある種社会がどうあるべきかということを決める、もしくはそれが決まらないということに関して、最適化問題をどう作るか、ということは工学に求めることだ。なかなか綺麗な答えが出ないことにどう組み込んでいくかという段階に来てるかなという。


福永)その綺麗に踏み込めない、綺麗に幅も示せないというところだが、それぞれの科学とか技術の間のところから、その社会的合意形成の中で膠着状態になったりとか、全く進まないということもたくさんあると思うが、そこをプラスアルファで、このようなすれ違いを踏まえて先に進める場合、どのようなご提案が可能かお聞かせいただきたい。社会的合意形成について、先ほど語られなかったところが多いと思うので、そこを補完していただきつつ。


小林)今の徳永さんがおっしゃった工学のクラシックなモデルというのは、応用科学の部分である。ここの部分で工学が、大成功してきたということは、ちゃんと認めてあげるべきだと思う。我々のこれだけの豊かな生活が安全で暮らせるようになっているというのは、この部分を非常に上手にやってきたということ、これはまず最初に認めなくていけないだろう。問題は、専門家への委任になったときに、工学者がどのような対応をするかというところが問われており、確かに今だいぶ変わってきてると思う。

でも、これは東大の全学の倫理講習か何かで紹介したと思うが、トロントでスマートシティ計画があり、情報産業のGoogle系の所がやっていたが、全部拒否されてしまった。それはGoogle系だから、当然全てをデータとして測定する、そしてそれによって便利なまち作りをするというビジョンだったわけだが、それは完璧に無視された。何が代わりに出てきたかというと、先住民族の文化を表現するような博物館を建てるとか、そういう要素が入っていたり、それからグリーンというものをもっと表に出してからいろんな形でその全てをデータ化することによって安全快適な生活をというモデルに対してNOと、そしてスマートシティという言葉自体が、今まで俺たちが住んでた町は馬鹿だったのかというふうな言葉遣いじゃないかという反発さえでてきた。さらに都市の魅力の根本的な理解ができていない、つまり都市は、飲み屋の猥雑なあの空間をごちゃごちゃしたところに人が惹きつけられているのであって、全部綺麗なショッピングセンターばっかりになったら楽しくないだろうという、その部分を理解してない都市計画だったという批判だった。実は、似たようなことが日本でも言われたことがあり、ある専門家が、一生懸命良かれと思って、便利で快適なまち作りの案を作って、人文系の先生に見てもらった。もう、くそみそに言われましたと。人の住む世界じゃないと、そういうところの感覚っていうのは、若い世代は違うのかもしれないが、なかなか応用科学、専門館への委任の部分での、成功体験できた世代にとっては、それの延長線上で考えてしまうが、経済的な仕組みがどんどん変わりつつあり、人々の価値観が変わってきたところで、それに対応できるような感覚を全員が備えることは、非常に難しいだろう。

そうすると、そもそも、特定の分野の専門家の中だけでできるかという問題が、そこで多分社会的なインプットの多様性みたいなところで##の可能性があるのだと思う。ただいつも工学の先生が偉いなと思うのは、社会的な事件が起こったときに、工学の先生はすぐにその新聞記事を見て、自分の研究がそれにどこか噛めないかっという考えらしい。必ず研究費が出てくるから、常にそういう感覚で世界を眺めてる人はすごいなと思う。理学部的には全くあり得ない感覚なので、そういう意味ではすごく社会的な関心が高い方々だと思う。だからこそ社会的課題を扱うためのシーズの部分、これを工学の方が一般社会との対応の中でもう少し扱えるような訓練をすればいいのかなと思う。


福永)なかなかそのときに難しいなと思うのが、例えば、この地層処分の話もそうだが、ある意味どういうコミュニティがこの後、これによってどういう運命の幅を持ちうるのかということを、工学者はこのような提案をするときには、シナリオメイキング中に入れ込まないといけない。しかし、小林先生がおっしゃるように、そういったそのシナリオメイキングをするためには、そもそもその市民の側にはみ出しておきながら変化も踏まえて、応答を可能にしながらしなければいけない。だから、シナリオメイキングとその応答可能性は、割と矛盾する問題がここにあるような気がする。このあたりは徳永先生が、先ほど、ロバストネスト柔軟性についておっしゃっていましたよね。


徳永)これ結構僕難しいと思っているのですが、今日少しお話を聞いていて思ったのは、小林先生が、あれかこれかではなく、あれもこれもっておっしゃっていましたよね。僕そのマインドはすごく大事なような気がしている。実はもうこのような話を、いろんな活動家の人とか、市民で興味のある人とかとお話するときに、先ほど小林先生がおっしゃっていた、欠如モデルにならないように、とても努力しながら一生懸命説明するんだけどそれは説明であり、情報の提供である。いつもそれは必要だが、欠如モデルは具合が悪いと、工学の中では結構、いわゆるそういう時期があって、今もそうかもしれません。それは、工学がやろうとしてきたことが、自分たちが言ったことを説明して理解されたものがその時に進みますよと思うというのが、その考え方であるが、そうではない。しかし、情報を提供しないと、考えるきっかけがないので、そこをどうやらないといけないのかということは、実はすごく気になっていた。そのときに、あれもこれも、どれもそれも、やっていくということを重層的にやることが、すごく意味があるんだということだとすれば、一定の時間がかかるかもしれないけれども、そういうところに踏み込んでいく。お互いに踏み込んでいくということではないかと思うので、先ほど言った、社会がどうなるかということについて、我々は社会のことを知らないから逆に教えてもらうということがあり得ていいと思う。そういうことを我々がやろうとすればこういうことです、ということをお伝えすることが、良い土俵の上でできるということが大事である。それは多分、技術をやってる人間が作る土俵は、多分技術の側から見ると綺麗なんだけど、違う側から見るとねじれてるとか。そういうことがあるので、少しそのあたりを本当にオーガナイズするような能力を持つ人っていうのが、来てくれることはすごく期待は##ですね。


福永)確かにそうですね。そのとき結構共通言語として多分リスクが今まで使われているが、多分それではちょっと狭いのだろう。そのあたりをもう少し詳しく教えていただけますか。


小林)トロントの例が本当に象徴的で、Googleは別にそんな馬鹿な会社ではないし、そんな技術マッチョじゃない。だから、地域住民と対話とかいっぱいやっている。NeverTheLessである。それでもこけた。そこで、何を彼らが見誤ったのかというのは、本当に調査してみたいぐらい面白いテーマである。昔ながらの、本当に技術オリエントだけで落ちていって、それで駄目になりましたというとわかりやすいが、住民の意見も聞きながらやったという、割と有名な例である。それでもこけている。日本のコンストラクターの方とこの話をしたときに、私らも実はそうだ、できることは全部やろうと思って、てんこ盛りの提案書を書くと。このてんこ盛りの思想というのがある。これ、今人々が求めたのは、てんこ盛りじゃなく、引き算である。誰がそこまでやってくれと頼んだ、という感じがちょっとあって。そこを語るときに、それはそのリスクを避ければ、それ以外は便利になればそれだけでいい、という世界じゃなくなっている。だからちょっと、ちらっとウェルビーイングなんて言葉をここでも書いたわけだが、このウェルビーイングって何なんだっていうのは非常に難しい。

ただ、私がコンセンサス会議をやった時の遺伝子組み換え技術に対して、専門家たちがリスクはものすごく低いということを一生懸命説明したが、その市民パネルの人は、それこそ最初は、欠如モデル的に知識の注入もしてもらったが、専門家とディスカッションするときには、ゼロリスクがないなんていうこともあっという間に飲み込んでしまうから、0リスク要求なんてない。むしろ、こういうものを導入することによって、我々の社会がどういうふうに変わっていくのかに関心がある。そこの説明がない、あるいは、今日徳永さんがおっしゃった、スウェーデンの例のように、うまくいかなくなったときに、それをどの幅までに抑え込むかというために、これだけの努力をしてます、という説明がない。多くのところ。だから、その遺伝子組み換えのときに一番面白かったのは、推進派の専門家に対して市民が挙げた質問は、もし何かが起こったときに誰が責任を取ってどう対応するんですかということで、推進をしている専門家も行政官も答えられない。これが一番決定的だった。だから、すごく偏ってるんじゃないの、あなたたちの考え方は、と。ゼロリスクはないと言いながら、あんたたちがゼロリスクでやってんじゃないの、という話になる。失敗はないと言っている。だから、そのような語り方で話ができるかどうかというのが、専門家にとっては問われているし、特別に何かコミュニケーションのための専門知識が要るわけではない。


福永)ということは、むしろそのシナリオを作るときに、まさにスウェーデンのところはすごくいい図だったと思うが、徳永先生の説明の仕方が面白くて、結局、何ができるかという手法とその的確さ自体を説明している図になっている。それはポジティブなところでゼロリスクだという図ではなくて、起こったときに、このやり方だとこれだけ防げて、これだと駄目で、これかもしれないけどこういうリスクがあって、さらにまたリスクを計算できるようなやり方になっている。そこのところを日本と比較して、その説明の方がいいのではないかっていう話をされてましたよね。


徳永)今、私達として、技術は単品ではない。システムとしての技術の適用であり、システムとしての結果としての振る舞いになるので、1個1個がこれぐらいいいです悪いですという話ではなくて、その総体としてどういうことが期待されますかという話を説明していかないといけなくなっている。僕はスウェーデンのやり方はその一つの考えの示し方としては良いかなと思っている。複数の読み方ができる。その複数のやり方をするということが、実は新しい議論を生み出すそうだ。そういうものを、技術をする側が出す。答えだけではなく、裏側にあるところを共有するという工夫が我々に求められている。


福永)それは逆に言うと、リスクガバナンスの中では、多分最も削られてる部分である。今の中では、おそらくさっきのリスク、ちょうどグラレコさんが書いてくださってますけれども、リスクを掛け算で考えてプラスマイナスどのぐらいでというふうにするとか、そういう割とわかりやすいシナリオを出そうとすればするほど、リスクの、例えば多元性だったりとか、そういったとこが見えなくなる。また、先ほど小林先生がおっしゃっていた、もうちょっと根本的にウェルビーイングっていうようなコミュニティを作るとか。コミュニティのあり方とか、人のあり方とか、社会とは何かというところまで、ものすごく深層にあるようなものを引きずってこなきゃいけないのに、それが今、リスクガバナンスの中で多分難しくなってるのかなという感触がある。


小林)社会全体の風潮ですね。ポンチ絵主義になってるんですよ。主にこれは、我々がいろいろ考えなければならないことをせず、わかりやすくわかりやすくという圧力がかかる。でも、所詮世の中は全部わかりやすいことでできているのではなく、難しいことは手間をかけて考えないといけないために、それを1枚の絵にした瞬間に大事な部分が消える。わかりやすくの圧力って異様に高い。これはちょっと時代のやばいところかなと思う。


福永)そうですね。科研費の申請書もそう。きっと。


徳永)先生がおっしゃる通りで、わかりやすいっていうことと、情報量が少ないってことは別だが、わかりやすく、もしくはわかっていただくために準備しますというのがうるさいと言われる。その結果として、ある種の最適化をすると、答えをどんと出して、それでいいでしょという風になってしまって、切れてる部分がなくなっているっていうのは本当に深刻な部分の一つのような気がする。


福永)他方で、科学技術の営みはその複雑なものをどう簡単に読み替えるか、人工化するか、Visibleなものにするというのは、もう一つ持っている欲求でもあるかなという気もするんですが。


徳永)それは最近。システムズとかっていうような議論も始まっていて。難しいもの、もしくは複雑なものは、複雑なものとして見ましょうというような論の進め方は、かなり展開してきているので、そこには一定の期待はある。その結果として出てきたものを、はい簡単な演出をしますというふうになるから、その裏のすごい努力が何かそうですね。


福永)そして矛盾がそこに発生する。やっぱり難しさ複雑さの中で、とりわけ地層処分のこの問題だったりすると、一番厄介なのは時間軸かなという気がします。そのとき、お2人の今日発表していただいたのですが、それぞれやはり、この問題に関してとても時間を長く取らなければいけないっていうことは、やはり工学的にもその難しさをもちろん生じさせますし、あるいは合意形成というところもすごい難しさを生じさせると思うが、そのあたりをお伺いしたい。


徳永)そもそも技術でいうと、これはスーパーチャレンジ。やったことがない。私達は多分いわゆる現代近代工学的なもので、どれぐらい物を安定させてやりますかというのを、多分やれたという実績は100年プラスぐらい。それは工学は、実験をしてモックアップして出来てきて、それをちゃんとモニタリングして成果を出すというのが、ある種のアプローチの一つで、それができない。なので、先ほど言った、真面目に説明すればするほど、説明してる側も何に説明しているかわからなくなって、聞いてる側も心配になるというようなことが、今までの経験ではあるというふうに思う。そこを、実は真面目になるほど説明がわかりにくいので、そもそも良いところを選んで、いいことをしているんだから、まあまあ大丈夫でしょというのは、工学をしている、技術をやってる側の何となくの感覚である。


福永)それは、Best and availableを常に提供していると。


徳永)そうそう。だけど、それでも、何か起こったとしてもこれぐらい安全ですというときに、何か起こったのシナリオがあまりに普通の人から聞くとびっくりするような怖いシナリオになっているということもあって、そこを真面目に一生懸命やればやるほど、何となく何を伝えてるかわからなくなって、そもそも危ないんじゃないのというジレンマがある。それをどうオーバーカムをするかは僕は答えを持っていない。ただここは、そのようなすごく長期のいろんな話をするということをエンジニアとして進めていく上で、私達が作らないといけないことの一つである。


福永)このあたりは社会的な合意形成でもとても難しいところですよね。


小林)モックアップをして、実機でテストするというモデルが適用できなくなっているというのは、実はこれに始まったことじゃなくて、####ダムなんかもそうだった。それからもう一つは、原発そのものがそうだった。ECCSが、ちゃんと機能するかどうかというのは、やってみるわけにいかない。そこから、確率論的安全評価というリスク評価が始まる。しかし、時間軸がたかが知れていた。これは途方もない時間軸になるので、そうすると社会制度として、社会技術みたいなものとセットで、埋め込まないとどうしようもない。私が前から思っていたのは、地上に置いておくと、日本のあたりがこんだけの##もあって危ないので地下に埋めます、そうすると安全になりますと、こういうわけだ。何か地中処分が始まったら、もう地上から危ない燃料分は、ずっともう消えるんだというふうな印象を与える。そんなことはない。原発が動き続けてる限り、地上に一定期間ずっと残る。大量に溜まらずに一定の量に減らすことができるだけで、地上からなくなるわけじゃ絶対ない。でもそういうところはあまり言わない。説明のとき。だから、非常にとか危ない中に、埋めると安全という、2項対立で語るが、ずっとベルトコンベアのように動くわけだからという話があんまりされていない。聞くと、いやそうですと答えてくれる。でも、彼らのオフィシャルの説明のときには、常に地上に置いとくとこんなに危ないです、だから地下に埋めますとなる。これはわかりやすい説明である。しかし、ちょっと肝心なとこ飛ばしてないっていう何か思う。


福永)確かにそのプロセスも含めてリスクって実はずっと発生し続けているわけですから、そうすると先ほどのその議論にもあったように、ポジティブなところだけを見せるけれども0リスクってやる側が言っちゃうっていうような形で進めてしまって、先ほどのスウェーデンの図のようにこのような形でこのような形でっていうその畳み掛けるような社会的な技術と制度と、それからその物質のリアルなリスクっていうところの見せ方がやっぱり難しいっていうかできないできてないわけですよね。

そこがちょっとやっぱり一つ厄介かなと思うのと、あともう一つやっぱり徳永先生のところにあった立ち止まる仕組みっていうのは、こういうその長い時間を必要とするものに果たして可能なのかっていうのと、この立ち止まるって何だいっていう話をちょっとなんかそれぞれお伺いしてみたいなと思うんですけれども、


小林)とっくにしてるでしょうね。それと、放射性廃棄物の年間発生がこれだけあるので、これを何とかしなくちゃいけないと言っているが、これからもずっと発生し続けるんですというシナリオのもとでのこの議論なのか、それともいずれは発生しなくなるような時代が来るということを前提にして、埋める場所を探し、決める中での議論なのかで、話が全然違う。


徳永)そこは何かある種の意思決定をすればいいと思っていて。そうすると、今の仕組みで回らなくなるのは、原子力発電所のゴミを捨てるお金を原子力発電で儲けたお金から作ります、ということは先生がおっしゃっている、ある種止まらない、止めないというものの考え方。それはそれ一つの考え方であるんだけども、それをベースでこの議論をしますっていうのか、やっぱり脱原発をしますと日本国が決めたらどうしますか、そのときにこの技術ですか、そうすると社会の制度として、それに必要な費用はどういうふうに作りますかっていうことをちゃんと説明しないと、ある種のモヤモヤとした感じというか、社会が不安に思うというか、不信を持つというか、そういうところがある。


小林)すごく入口で原発を続けるかどうかとは切り離して、既にあるんだからこれを何とかするっていう形のフレーミングをする。それは気持ちはわからなくはないけれども、それだけでみんな納得しないんじゃないかという問題を扱いきれてないよなと思う。


福永)そうですね。廃棄物はもう廃棄物のまま、それから資源化されたものは資源化されたままと、わりとその概念として区分けをして、あたかもその中で全部が解決するかのように考えてしまう。実は原発を動かし続ける限り、2万4,000本分はもうちょっと増えていくっていうところも、あんまり入っていなかったりとか、そこを掘り続けるんですかっていう疑問はどこに持っていけばいいんだろうとかがやっぱりわからなくなってしまう。全体が見えないってのは本当にそうかなという気がする。ちょっと曖昧でよくわからない問題だからっていうことでなかなか議論は難しい。つまりそれ自体を扱うのが難しいのだが、ちょっとここで少しグラレコさんがですね、既に徳永先生と小林先生の議論をお聞きしながら、実はグラレコさんがいわゆる一般市民かと言われると、グラレコさんだいぶプロ市民に近いんですけど、そこの中から疑問に思ってるところを抜き出してくださっているのもあり、せっかくですのでご紹介いただきながら、佐久間さん、松本さんの方から少し問題提起をしていただけるといいなと思う。


佐久間)ありがとうございます。プロ的というよりかは、成熟したアマチュアに頑張ってなろうと考えているところではあるんですけれども。今このお話の中で放射性廃棄物の問題が、非常にリスクがわかりやすいから、トピックとして上がってるのかなと思いつつ、その科学、サイエンスという立場から見ると、どの技術に関してもリスクというものが存在して、そこをどう対話していくか、どうコンセンサスや合意を取っていくかというところが今回の主題なのかなというふうに思っていた。お話を聞いて思っていた部分として、まず疑問というよりかは驚きに近いところとして、科学には種類があるというお話があった。価値判断には寄与しない真理を追求するような理学的な側面と社会の役に立つ専門的な判断をしなければいけない側の科学という、二つがあるということが、別に二律背反ではなく両方必要なわけであるけれども、その事実を追求する側と提案していく側という側面があるよということの理解が、まず市民として持っておかなきゃいけないなと思った。さらに、この社会の役に立つというふうに一般的に考えてしまう科学に関しても、その便利になる、豊かになる、さらにウェルビーイングになる、ということは、それぞれ目的が異なるというところにも、目的地を議論しなければならないなというふうに思った。私として書かせていただいた、市民が見るところと、研究者との乖離っていうところは、一般的に科学的根拠みたいなことを聞くと、すごくそれは中立的で不変な真理だというふうに受け取られて、それが社会に役に立つんだろうな、正しい答えなんだろうなというイメージを持ちがちだなと思った。しかし、今のお話を聞くと、その中立的、どの価値に中立なのかって、この不変な真理という話をしながらも社会の役に立つというところに、この理解が矛盾をはらんでるっていうことに関して初めて知ることができる。そういうことをちゃんとわかってくださいねって市民に伝えるんですけど、それはすごく伝わりにくいと思いますし、受け入れにくいなっていうところがある。今おっしゃったようなこの発生確率のリスクとリスクの種類っていうのもあらゆるシナリオを説明すればするほど、どこまで説明しなきゃいけないのかちょっとごにょごにょしたりモヤモヤしたりというところで、科学的立場がちょっとその不審な目で見られがちになってしまうような、そんな立場の弱さみたいなところが、非常にこのリスクが大きいところが目立つせいで、そこをさらに重箱の隅をつつくような形で議論が違う、各者が思った方向じゃないところに着地しなければいけないときが出てくるみたいな、そういったところの議論というのが非常にその合理性の種類が違うんだなと、その立場によって社会的な合理性を考えなきゃいけない人と経済的なことを考えなきゃいけない人とどっちを優先するのかっていうことをすると、どちらかを軽視しなければならないっていうことが発生しなきゃいけないっていうところに対して、どんなことを議論しなきゃいけないんだろうということを非常に考えさせられた。

今皆さんの議論で出てきた、便利で快適な整理された社会と、不揃いの不便で不快のある社会のどちらが豊かなのかというところが、どう対応されたのかというところ、非常に研究したいとおっしゃられたところがわかりやすくて、ここの部分のどういう合意形成や対話をしなきゃいけないのかというところが、すごく市民の説明者の思いと、その受け取り手の思いっていうところが、あるかもしれない道を示すための技術側の説明という部分と、それを理解するところが、技術に対し、理解の選択が起こると、そこに対してわかりやすいっていうところを理解する人とわかりにくい部分を放棄してしまう。そのせいで、説明の裏が消えてったりとか、複雑さが伝わらないみたいなところに対し、ポンチ絵の病という言葉も出てきたが、そういったところに対する市民側をどう発展させるか、結局社会の役に立つっていうところを話したときに、社会の役に立つには市民の理解をした上でそこで一緒に進まなきゃいけないっていうところが、専門家に任せるには重要すぎる。専門家だけで進めちゃいけなくて、市民がそこに同意して動いたおかげで社会の役に立つのであって、やはり専門家は提案するところに関しては、社会の役に立ちますよっていう言い切りはしちゃいけないんじゃないかなと感じた。

質問というものではないが、市民との乖離と、合意形成に関しては、提案なんじゃないですか、それに対して市民側がどう答えるんですかっていうところで、結局その答えとして進んでいく人たちは社会なので、そこの社会っていうところを動かせない限り社会の役に立つとは言えないんじゃないかなっていうことを考えたというところが、今までのこの議論のまとめという、そのような論点なのかなと思って用意させていただいた。


福永)ありがとうございます。いつもグラレコさんって色々なことをまとめながらやらなきゃいけないので、そういった意味でまとめるところを今示してくださったと思う。こうやって改めて議論の道筋をたどっていくと、お二方どうですか。何かこのあたりやっぱり落としとかなきゃっていうのありますか。


小林)素晴らしいまとめ方だが、やっぱりコンセンサスっていう言葉をどう使うかというのはすごく難しくて。どこかで我々は話せばわかると思っているが、それは嘘。

ほとんどの場合話したってわからない。だからコンセンサスはそんな簡単にできない。話せばわかるときもある、というのが、事柄の真相。ただ、セッティングをきちっと十分に準備した場合に、大変興味深い結果を生み出してくれるような仕組みっていうのはあると思う。

市民の人たちを巻き込んでやるとき、結局あれもこれも議論になるが、電話で世論調査やってるときの問いかけに対し、て皆さん何分考えてますかと。一文についてどれだけ準備しましたかという話をワーッと集めた結果と、じっくりと情報を手にして考えた上で出してきた結論とっていうのはやっぱり扱い方を変えないといけない。

それでもやっぱり意見は合わない。でも、Metaコンセンサスを作ることは可能かもしれない。つまり、今私とあなたの意見はわかれていると、そしてこれも根本的な立場の違いかもしれないと、だけどあなたの言ってることがわからなくもないと。でも私は簡単に同調できない。で、この対立をどういう形で解消するかという、その解消の方法に関しての議論で合意できるかもしれない。というやり方はある。だから、ベタのレベルでの合意ではなくて、Metaのレベルでの合意という、そういう考え方などを組み合わせるっていうことをやらざるを得ない。現実の問題、全員がみんな意見一致することはできない、結局多数決ですかって話になってしまう。ええ、議会の選択、ここはどうしても割れるときが多いと思う。


佐久間)今おっしゃっていただいた、この合意形成っていう言葉の含む幅っていうところにすごく勘づくところがあり、合意形成って実は、あらゆるところで、選挙のような大きい合意形成もあれば、すごく小さな合意形成もというところが、その対応の仕方が世論調査みたいなもう5分考えてくださいっていうようなやつもあれば、今このように我々が皆さんのお話を聞いて起こしたものを技術として伝えてそれに対する市民からの反応をフィードバックを得るというような、深い方の対話っていうところもあれば、さらにもっと深いことがある可能性があると思う。そういったことがたくさんされていく中で、偶発的に合意形成が社会で決められていくっていうような流れがある。以前進化の話をしてたと思う。地球はどこに行くのか、社会はどこに行くのかっていうところが、実はもうある程度決められた状態で進んでいるような感じがすごくする、というところがある。何かこの対話の種類であったり、そこの進み方を何か技術者が、ある程度こうなるだろうという予測ではなく、個々の対話の種類とこの合意形成もすごく種類があるよっていうことを理解した上で、あらゆる手段をとってかなきゃいけないんじゃないかなということを気づいて、デザインをして実験をいっぱいあった方がいいと思う。

福永)実はグラレコさんに入ってもらっているのは、実験の一つだと思っている。なので、こういった難しい中、ある意味ポンチ絵だが、絵にすることで、ABCDっていう論理の答えを文章だと書きがちだが、これは広げっぱなしでOKっていうところが、やっぱり重要なポイント。

最後に、徳永先生。



徳永)小林さんがおっしゃったのはすごく大事だと思っていて、合意形成って何ですかって、合意形成は全員賛成することでもないと思う。

全員賛成する社会なんて、僕は恐ろしくてそんなとこに行きたくない。賛成が、前向きに進むことに対してそれほど賛成しないけれども、一定の理解はします、もしくは、なんていうか反対はしませんというようなことだってあると思う。合意って何ですかっていうこともまじめに考えていくことがあってもいいかなという気がする。


小林)本当、みんな同じように考えろっていうのはあってはいけないことだ。かみさんと全ての項目に関して意見一致しますか、しない。だけれども、一緒に暮らしていくっていうところでは合意している。それが破綻したらどうなるかわからないけれども、そんなもんでしょうってご意見する。


福永)むしろ、妥協をどこにMetaレベルで置けるかっていうことも大事なのかなと。ちょっと佐久間さんが流暢すぎて松本さんに触れなくなってしまっているが、松本さん最後ちょっと手短に。


松本)私は本当に一市民でしかないが、データとかグラフとかで安全である、ということは示せるのかなということは感じたが、それが安心できるのかという判断が難しいなというふうに感じた。先ほどのスウェーデンのあの被ばくのグラフを見ても、なんか大丈夫そうに見えるけど本当に安心なのかなみたいなところ、安心をどうやって作ることができるんだろうってことがちょっと気になった。


福永)ありがとうございます。これはかなり大きな問題である。安全と安心の違いとか喋り始めると、多分小林先生これで一コマ話せて、と思うのでちょっと次回ぜひ小林先生を呼んでいただくという形にしたいなと思う。最後にあのまとめに代えて、研究会にとっても、研究者としても、それから成熟したアマチュアとしても大事なことかなと思ったのが、途中でネガティブケイパビリティっていう言葉を出されましたけれども、答えが出ない、しかも複雑で厄介で、誰がどこに行っていいかわからなくてしかも自分が何喋ってる途中でわからなくなるっていうこの問題に粘り腰で向き合うってかなり大事かなという気がする。小林先生どこかでそういう溜めっておっしゃったんですね。

小林)溜めはやっぱり必要。もう社会の中から溜めがなくなって久しい。やっぱり何かすぐに答えを求めますもんね。


福永)やはりすぐに答えを求められるところもありつつ、求められないものだという構えで、耐え忍ぶっていう感じですかね。


徳永)うん。それは多分、僕はつらいですけど、そこから学ぶことはたくさんあるし、社会が本当の意味で豊かになっていくっていうプロセスの一つなんじゃないか。どっか歯を食いしばって耐えることが必要で、それをやっていることから得ることはたくさんあるような気がして、それは無駄なことでは全然ないというふうに思う。


福永)ありがとうございます。時間を超過しているので、一旦ここで終了したいと思う。そもそも根本的な科学とは何か、その技術とは何か、、実は科学技術日本独特のくくり方でもあって、この辺り少しすごく厄介な問題が、書かれてるんですけど、そういう複数の科学、技術っていう立場が全然違うところに実は研究者がそもそも立ってるっていうところは、今日実は皆さんに一つご自身に降り振り返って考えていただきたいことである。

そういうわけで実はこの放射性廃棄物どうするんだっていう具体的な問題についてでは、さらにこれを深めながら議論をしなければいけないわけですけれども、それはまた事後ということで、今回はこういう刺激的なお話をお二方にしていただいたことにまず感謝を申し上げたいと思う。2人ともどうもありがとうございました。

そして、今日もグラレコさん、絵を書いていただいてありがとうございました。こちらのグラレコさんの絵は後ほど、またウェブサイトに掲示されますので、振り返ってみていただいて、こういう話があるという、ご自身でキーワードをこの中から拾ってまた考えていただければと思う。

本日は本当にありがとうございました。

視聴者アンケートの結果

ワークショップ終了直後、Zoomのチャット欄およびアナウンスでアンケート (Googleフォーム) への回答を求めた。結果、参加者113名のうち、25名 (約22%) から回答を得られた。回答者の内訳は、学生: 68%、 教員/研究員: 16%、 職員: 16%であった。

 ワークショップ全体については、96%の参加者から「とても興味深かった」「興味深かった」との評価を受けた (図1)。

1. 「今回の研究倫理ワークショップはどうでしたか?」

また、アンケート回答者の88%がワークショップを通して研究倫理についての捉え方がこれまでと変わったと回答し (図2)、88%は次回のワークショップへの参加にも前向きな意思を示した (図3)。なお、第3回における、第2回からの継続参加者は35名 (第3回参加者の約31%)、第1回からの継続参加者は21名 (第3回参加者の約19%)、第1〜2回を通した継続参加者は37名 (第3回参加者の約33%) だった。

2. 「ご自身の研究倫理についての捉え方がこれまでと変わったと思いますか?」


3. 「次のワークショップも参加したいと思いますか?」


ワークショップのセッション中では、「対談」を印象的だと回答した参加者が前回に引き続き最も多かった (図4; 80%)。次点は出口先生によるプレゼンテーション (図4; 56%)、その次には杉山先生と瀬崎先生のプレゼンテーションが続いた (図4; 48%)。今後 ワークショップで取り上げて欲しいテーマや交差すると面白そうな話題を尋ねたところ、下記のような意見が寄せられた。

・量子コンピュータ

・国際共同研究における価値観の相違を根源とした研究倫理理解の温度差と解消の手段

・生命倫理に関する身近なテーマ

4. 「印象に残ったセッションはありますか?」

本ワークショップで導入された、グラフィックレコーディングに関しては、88%の参加者から好意的に評価された (図5)。実際に寄せられた声としては、自分でメモを取っているのに比べて格段にわかりやすくて驚いた。「とても分かりやすく、よかった!」「興味深かった。文字だけより印象に残る」「議論を可視化、展望する方法として非常に興味深く感じた。数式や論理的な議論が背景にある場合には、よりグラフィックレコーディングをされる方の受け取り方、考え方が表現に現れるのではないかと思われ、またそれによって倫理・思想の議論が別視点から深められるのではないかと思った」「イラストや二次元的なホワイトボードの活用により、異なる論点に見える議論の繋がりが意識できた。字も綺麗で、見やすさという点でも素晴らしかった」「描いている途中の様子を含め、グラフィックレコーディングしている方のポイントの踏まえ方を映像で確認できて面白かった。また後ほど、全体をゆっくりみてみたい」「Creative and attractive」「大変面白い試みで感心した。是非他のイベントなどでも活用できると良いと思う」「2回目は参加できなかったため、冒頭に流れていたこれまでの議論をまとめたグラレコがとてもありがたかった」など、前回に引き続き好意的な意見が数多く寄せられた。一方、「字が小さい。書いている人で遮蔽されているため、あまり見えなかった。模造紙よりもデジタルで書いて画面共有等をしてほしい」といった意見もあった。第2回でも挙げられたが、「グラレコをデジタル媒体でリアルタイムに、個人が任意の場所を自由に追える仕組み」の模索が必要なのかもしれない。

5. 「グラフィックレコーディングはどうでしたか?」

◆8名の参加者からは、下記のような意見や感想が寄せられた。箇条書きで示す。

・技術を開発する人、ビジネスや行政などに応用してサービスを提供する人、利用する人、と いう三者があると指摘されていた。今回のゲストは技術を開発する人だけだったが、応用を 考える人の意見も訊きたかった。

・研究倫理について抱きがちな印象をガラリと変えるとても楽しいワークショップだった。

・Workshop is well-organized. Also, it would be great, if the English interpretation can be 

 provided in future.

・大変興味深かった。この試みを続けていただきたい。

・技術を市民に受容させるための「啓蒙」が議論の中心。技術を世に出すことの是非を議論す るのが倫理の役割ではないか。企業のカネが入っていることによる利益相反もあろう。

・対談の時に、グラフィックレコーディングのお二人が、便利になるために技術が迎えに来て くれると思ったら難しいままだった、また、福永先生が技術を数学だけで説明すると理解で きる層とできない層で分断が起こるというようなことをおっしゃっていて、なるほどと思っ た。たくさんの人に使ってもらうために開発された技術は、使ってもらわなければ広まらな いので、導入するときの段差を小さくする努力も必要になってくるのだと感じた。

・昨日のデータ所有権に関する議論は参考になった。

・タイトルと内容のつながりがいまいちよくわからなかった。結局AI関連の倫理の話となってい たように思う。内容はとても面白く、楽しませていただいた。